記事内に広告を含みます

藤子不二雄A(漫画家)の凄い経歴と本名や名前の由来は?Fとのコンビ解散の真相も調査!

asensei-01

スポンサーリンク

感謝
ねぎらい
寂しさ
期待 等…。

色んな気持ちが混ざるニュースです。

 

日本の「漫画」という世界における

草分け的存在の一人とである、

藤子不二雄A先生に関する報道です。

 

自覚症状無しで大腸がんの診断を受け、

さらに心不全を経験して手術もした

A先生について、ヨミドクターが

2019年2月8日(金)に記事を配信しました。

 

A先生の描かれる笑える場面や、

人のエゴを全面に押し出した

ブラックなテイストの切り口。

 

それらは恐ろしいと思いつつ、

いつの時代でも普遍の恐怖という

スパイスで私達を楽しませてくれる

「面白さ」なのだと読む度に思います。

今回、そんな藤子不二雄A先生という人が

どういった経歴の持ち主で、

何を考えて漫画を書いてきたのか?

 

情報化社会と呼ばれる現代ですが、

コチラから知ろうとしないと知識は

なかなか自分の物として増えないと考え、

藤子不二雄A先生について調査をしてみました。

スポンサーリンク

報道では

ヨミドクターでは以下のように報じています。

 担当編集者を連れて居酒屋やバーをはしごし、夜明け前まで。そんな日々を長年続けていても、健康診断の結果はいつも異常なし。「編集者が体を壊しても、藤子さんは元気」と周囲が驚くほどの病気知らずだった。

富山県氷見市の禅寺で生まれた。幼い頃から肉や魚は食べず、食事は野菜や海藻が中心。「元気でいられるのも、この食生活のおかげだ」と信じてきた。

その健康への自信が揺らいだのは、2012年の終わり頃。右腕の皮膚疾患を治療してくれたなじみの医師に、がん検診を勧められた。陽電子放射断層撮影(PET)を受けると、おなかの付近に黒い影が見つかった。大腸がんだった。

自覚症状が全くなかっただけに、予想もしておらず、ショックは大きかった。

「目の前が真っ黒けです。これで終わりなのかなと思いました」

(中略)

心臓弁膜症の手術は、心臓病治療の実績が豊富な東京都内の別の病院で受けた。万一に備えて、2007年から月刊誌に連載していたコミックエッセーも終了した。

17年8月下旬に臨んだ手術。僧帽弁の傷んだ部分を切ったり縫い合わせたりして形を整える。予定の半分ほどの3時間で終わり、約10日後に退院した。「いかに健康が大切か――。体を大事にしようと思いました」

3か月後、日本循環器学会が始めた心不全予防キャンペーンに、漫画「忍者ハットリくん」が起用された。主人公・ハットリカンゾウの弟・シンゾウになぞらえ、「シンゾウ! 泣かすな!」とPRする。大学病院の主治医にも協力を依頼され、快諾した。

今は、自宅で缶ビールを1本飲む程度。外食は極力減らした。我慢していたゴルフも週1、2回はゴルフ場に通えるまでになった。不整脈があるので血液をサラサラにする薬を服用しながら、青年漫画誌に年数回、漫画家・西原理恵子さんのイラストを添えたエッセーを連載している。

(ヤフーニュース・ヨミドクターより一部引用)

スポンサーリンク

藤子不二雄Aのプロフィール

藤子不二雄A プロフィール

読み方:ふじこ・ふじお・エー

本名:下で詳しく!

生年月日:1934年8月10日

年齢:84歳

血液型:A型

ニックネーム:A先生

出身地:富山県氷見郡氷見町(現:氷見市)

出身高校:富山県立高岡高等学校

スポンサーリンク

藤子不二雄Aの経歴

とにかくあまりにもビッグネームすぎる

A先生のこれまでの漫画家としての経歴、

(凄い事は知ってても)実は知らない方は

多いのではないでしょうか?

 

…と思ってこれまでのA先生について

簡素ではありますがまとめてみました。

  • 富山県高岡市の小学校時代から漫画家を志していた。
  • 小学生時代に藤本弘さん(後の藤子・F・不二雄)と出会う。
  • 17歳の時に毎日小学生新聞でデビュー。
  • 高校卒業後、富山新聞社へ入社、似顔絵やインタビュー記事を担当。
  • 藤本さんに誘われる形で新聞社を退社、2人で上京する。
  • その後はオバQ、ハットリくん、プロゴルファー猿など、ヒット作を連発する。
  • 1987年:藤本さんとのコンビを解消、本名の頭文字から「A」という名前をつける。
  • 1990年:映画・少年時代で藤本賞・山路ふみ子文化財団特別賞を受賞。
  • 2005年:第34回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞受賞。
  • 2008年:出生地の氷見市において名誉市民となる。
  • 2008年:旭日小綬章を受賞する。
  • 2013年:大腸がんと判明、トキワ荘の今はなき仲間達に「こっちにこい」と言われた夢の話はあまりに有名。
  • 2014年:「漫画道」、「愛…しりそめし頃に…」で第18回手塚治虫文化賞特別賞受賞。
  • 2015年:3月に心不全と診断されて入院、3週間後に快復。
  • 2015年:ジャンプスクエア12月号から「PARマンの情熱的な日々」を休載発表。
  • 2017年:心臓の手術を受ける。

つい数年前まで、高齢ながら普通に

漫画を雑誌で読める程に活動的な方です。

 

スポーツも好きでゴルフを嗜んでいました。

プロゴルファー猿必殺技・旗包み

A先生が偶然できた事をアイデアとして

採用した逸話もあります。

スポンサーリンク

藤子不二雄Aの本名と名前の由来は?

A先生の本名は、

安孫子素雄(あびこ もとお)

という名前で、上にも書いた通り

Aは安孫子のAという事になります。

 

そもそも、「藤子不二雄」という

2人の合作としてつけた名前の由来は、

尊敬する手塚治虫さん足元にも及ばない

という事から「足塚不二雄」という

名前で活動していました。

 

そこから2人の名前を入れて

「藤子不二雄」という

名前が生まれたそうです。

スポンサーリンク

藤子不二雄のコンビ解散の真相は?

藤子不二雄名義で発表していた作品は

数多くありましたがその実、

本当に2人で合作した漫画作品は

初期の頃だけであると知られています。

 

F先生はSF方面や子供向けの作風、

A先生は大人向けのブラックユーモア

2人の作風は違っていた事もあり、

1987年に正式にコンビを解消します。

 

その理由は、

「藤子不二雄のネームバリューに頼らず

2人とも一本立ちしていいんじゃないか」

というある種コンビからの卒業というような

感覚だったのだと思われます。

 

そしてコンビ解消はA先生からの提案で

どちらかの死後、遺族へ渡るであろう

「ドラえもん」の莫大な著作権料の

分配問題を未然に防ぐために

コンビを解消したとされています。

 

2人は決して不仲だったわけではないため、

お互いに交友関係は続いていたそうです。

スポンサーリンク

藤子不二雄Aという生き方

F先生から上京を誘われて勤めていた

会社を辞めようか悩んでいたA先生。

 

漫画家になるという夢を持ちつつも

好きだった後輩社員のいる

会社も悪く思っていませんでした。

 

そこでA先生は新聞社を辞めて

上京について反対されるのを覚悟で

母親に相談します。

 

しかし意外にも母はA先生の夢を応援、

2人は上京して伝説のトキワ荘へと

入居する事になります。

 

ただ、新聞社への入社を紹介したのは

社長であるA先生の叔父がだった事もあり、

A先生の退社に叔父は激怒したそうです。

まぁ、当然ではありますが…^^;

 

A先生の座右の銘でもある

「明日にのばせることを今日するな」

という所から考えて、

遊び心を忘れないでジックリ焦らず、

人生そのものをトコトンまで楽しむ

大きな心を持つ姿勢

成功を呼ぶ秘訣なのかもしれませんね。

スポンサーリンク

まとめ

日本の漫画界の草分け的存在、

そして伝説のトキワ荘メンバーの一人

でもある藤子不二雄A先生に関する

調査内容でした。

 

病気と闘うより、共に生きるというと

先を予感させて寂しい気持ちになる

部分もありますが、

A先生というエンターテイメント

少しでも長く見ていたいという

気持ちになりました。

 

今回は、

●報道では
●藤子不二雄Aのプロフィール
●藤子不二雄Aの経歴
●藤子不二雄Aの本名と名前の由来は?
●藤子不二雄のコンビ解散の真相は?
●藤子不二雄Aという生き方
●まとめ

以上の内容でお送りしました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

スポンサーリンク

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です